"IF YOU CAN MEET WITH TRIUMPH AND DISASTER
      
AND TREAT THOSE TWO IMPOSTORS JUST THE SAME.."

    1984年クラブ名をW・フォールトとして結成し、1987年にテニス協会の

    主催大会に参加するにあたり、当時、愛読していたテニスマガジン誌の

    特集で掲載されていたロランギャロス(Roland Garros)にクラブ名を変更

    ポロシャツを作成した。

    その時のデザインにリトル・モーとウインブルドンのセンターコート入口の

    文字を入れました。

    1987年作成
     
    1990年                2000年
      
    2006年                2007年
     

    2010年前期             2010年後期
   
  

 

    モーリーン・コノリー(1934-1969)

    リトル・モー (1978 アメリカ映画)

    リトル・モー(Little Mo)は、1978年に製作されたアメリカ映画。

     1953年に女子最初の年間グランドスラム達成者となったが、落馬事故で

    早く現役を引退し、34歳で癌で亡くなったテニス選手のモーリーン・コノリー

    モデルにした物語である。

    

     死去から9年後の1978年、彼女の生涯をモデルに映画「リトル・モー」が

    製作され、日本でも1979年に劇場公開された。

    天才少女プレーヤーとして注目を浴びた、モーリーンの成長や葛藤を描く。

    その映画の中でモーリーンが、ウインブルドン決勝戦に向かうシーンで

    センターコート入口の上に書かれていたのが、

       "IF YOU CAN MEET WITH TRIUMPH AND DISASTER
      AND TREAT THOSE TWO IMPOSTORS JUST THE SAME.."

     映画の日本語翻訳では、

     「もしあなたに勝利があっても、敗北があっても全力を尽くせ・・・

     的な事が書かれていた?と思います。

 

    この言葉、

     "IF YOU CAN MEET WITH TRIUMPH AND DISASTER
     AND TREAT THOSE TWO IMPOSTORS JUST THE SAME,"

     「もし君が 栄光と惨劇に 出会い、
           その2つの虚像を 同じように扱えるなら、」

            ・・・you 'll be a Man, my son !
               息子よ、お前は、「真の男(人間)」なのだ!

    ジョゼフ・ルドヤード・キップリング (1865−1936)

    ノーベル文学賞受賞英国小説家ジャングル・ブックなどで知られ

    イギリス人に大人気の

        もしも ("If—") 1885年 という長〜い詩の一節です。

    戦地に赴く息子に向けて書いたキップリングの気持ちが出ているのか

    13回も もしも、、、 って言う彼の理想像・完璧像なのでしょうか、

    息子であるジョンへの教えの形式として書かれた詩で、 ジョンは

    1915年にロースの戦いで戦死しています。

    この"If—"第2詩節3-4行目である 


    “If you can meet with Triumph and Disaster 

      / and treat those two impostors just the same” の句が、

    ウィンブルドン選手権の開かれる

    オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブの

    センターコート選手入場口の上に描かれている。



    モーリーン・コノリー(1934年9月17日 - 1969年6月21日)

    モーリーン・キャサリン・コノリー・ブリンカーは、

    アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ出身の女子テニス選手。

    1953年に女子テニス史上初の年間グランドスラムを達成した選手である。

    身長160cmほどしかない小柄な体格だったことから、

    “Little Mo”(リトル・モー)という愛称で呼ばれた。

    プレー・スタイルは典型的なベースライン・プレーヤーで、試合中にネットに

    出ることは、少なかったという。


          4大大会最高成績・シングルス

          全豪 優勝(1953)
          全仏 優勝(1953・54)
          全英 優勝(1952-54)
          全米 優勝(1951-53)
          優勝回数 9(豪1・仏2・英3・米3)

          4大大会最高成績・ダブルス

          全豪 優勝(1953)
          全仏 優勝(1954)
          全英 準優勝(1952・53)
          全米 準優勝(1952)
          優勝回数 2(豪1・仏1)

          4大大会最高成績・混合ダブルス

          全豪 準優勝(1953)
          全仏 優勝(1954)
          全英 ベスト4(1954)
          優勝回数 1(仏1)

    コノリーは当時最も有名なコーチだったエリナー・テナントの指導を受け、

    1949年から選手生活を始めた。

    1951年全米選手権で4大大会初優勝、以後1953年まで大会3連覇。

    1952年から1954年までウィンブルドンにも大会3連覇。

    1953年は全豪選手権で初優勝を飾り、全仏選手権、ウィンブルドン選手権、

    全米選手権の大会連続でドリス・ハートを決勝戦で破った。

    1938年にドン・バッジ(1915-2000)が、史上初の年間グランドスラムを

    達成してから15年後、コノリーは女子選手として初の偉業を達成した。

    1954年にも全仏選手権2連覇、ウィンブルドン選手権3連覇を達成。

    1954年の全仏選手権では、女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの

    3冠を獲得する大会完全制覇もあった。

     しかし1954年のウィンブルドン3連覇の後、全米選手権を迎える直前に、

    コノリーは乗馬の最中にトラックにはねられて足に大怪我を負い、19歳で

    選手生命を絶たれる。

    この後、彼女はノーマン・ブリンカーと結婚した。

    やがて彼女の足は生活に支障をきたさなくなり、テニスのコーチを務めるまで

    回復した。

    1968年に国際テニス殿堂入りしたが、翌1969年6月21日に癌のため

    テキサス州ダラスにて34歳で死去した。

    4大大会シングルス通算9勝は、モニカ・セレシュと並ぶ女子歴代8位タイ

    記録である。